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昭和五十三年十一月二十一日 朝の御理解
御理解 第六十九節 信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。
信心は見易いものぢゃが、氏子から難かしゅうす。一言で云うと、どう云うことかと云うと。おかげを受けなければならんと云う信心は、大変難しいです。
おかげ信心は難しいです。けれどもね。信心とは、御神徳を受けさせ頂く道を教えて頂く。云うなら、御神徳を頂くと云うことの信心はみやすうして、楽しゅうして、有り難うして、それこそ愉快になると云うのです。
皆さんそれを、反対に思うているですね。ああお徳を受ける信心やら、とてもお徳やら受けはきらん。とてもお徳は受けんでん、おかげを頂けばと云うような考え方だから難しい。おかげと云うものは、そんなにてんばり易う受けられるようになっていなのですから。
今日は私共、相撲を見物させて頂く。もう七、八年にもなるましょうか。もう恒例のようになってしまって。それこそ大変良い場所を取って頂いて、繁雄さんと、大体正義先生が付いて行くわけなんです。今年もやっぱりそう云うわけなんです。もうあれは、今の横綱の輪島がほんな、すなかぶりと云うところですか。あそこのとこで見よる時に、怪我しましたでしょうが。あの時だったと思います。あの時は、正義先生は後におったかの。時がちゃった。私は繁雄さんと並んでいる時でした。あの時に神様から。十両の時から見たんです。そしたら、神様が右のとが勝、、左のとが勝つと、最後までそれを言うて下さるのですよ。もう神様からお知らせ頂く通りです。それから、愈幕内が始まりました。繁雄さんに私が、今度は右が勝つばの、左が勝つばのという訳ですたい。
あの時には本に、何とかと云う相撲取りが、ずーっと私共が十何日目かに行ったんですけど。ずーっと黒星続きのとが、いっちょ居ったです。それで私が今度は私が、一遍でん勝たせにゃ、気の毒がのと言いよったら、それがころっと勝ったんです。そしてまた、翌る日からずーっ取負けたんです。何と云う相撲取りでしたでしょうかね。それから、十両の勝ち負けを教えて下さる時も、そうでしたが。今度は右が勝つ、左が勝つと言う通りでした。それから愈、幕内の相撲が始まりましたが。神様は全然教えて下さらんです。神様に、それでう云うことぢゃろうかと思うたら、Z『勝ち負けが分かった、らおもしろうない』と云う意味のことを頂いたです。
私はね、今日皆さんに聞いて頂こうと云うのは、その事なんです。どうでしょうか。皆さんがお願いしたら、ああおかげ頂いた。まるでもうお願いしたらもうすぐおかげ頂いた。右と願えば右、左と願えば左。どうでしょうか。それで人間、幸せに成れるでしょうか。信心しておかげを受けて呉よと云うのは、信心して力を受けてくれ、信心して徳を受けてくれと云うことなんです。目先目先の、只おかげに終始せずに。皆は、それこそ神様を、便利屋さんのように思うちからね。たまにはお医者さん代わりになって貰わにゃならん。集金屋さんになって貰わにゃならんごたる。云うなら信心から本気で脱落して、信心のいよいよギリギリの根本のところ。なぜ信心をしなければならないか。なぜ金光教の信心。今、合楽で云われとる。合楽理念と云うことが素晴らしいのか、ね。と云う様なことをです。まずは私は分からせて頂く信心を、しなければ駄目です。云うならば願いが、願い通り思い通りになることが有難いと思うような信心では。だから難しいです。お願いしたばってん、おかげ頂ききらぢゃったになってしまうです。それが面白い、それが有難い、と分からせて頂くような信心をすると。信心が楽うなって、有難うなって、それこそ愉快になるのです。
昨日、繁雄さんところの国雄さんが、朝参って来ました。そして市場に毎朝お野菜を出すんです。それで行こうとしたところが。あれは私は分からんけど。鍵を中に詰め込むことがあるそうですね。あれはどうなっているのですかしら。ようそげなお届けがあるですもんね。だから、さあーち間にあわん。なかなか器用な人ですから、針金を持って来て、針金でこうやって開けて、四十分かかったそうです。そのために市場が遅くなったとこう云うわけなんです。だから、こう云うところは先生。どう云うふうに頂いたなら良いだろうかと云うのです。私は今日から、もう三十分早起きして、市場通いをさせて頂くことにして、そして毎日、日参させて頂くことを針金で開けながらね。そんなことを思うたんですが。大体どう云うふうに頂いたが本当でしょうか。と云うような、お伺いが昨日ありはした。
毎日、日参しよう、日参しよう。親父だけに任せとっちゃでけんと云うような気持ちは十分あるのだけれども。なかなかお参りができん。けど四十分間、金光様、金光様で開けよる間にね。ああ自分がずーっと思いよる、朝参りをさせ頂くと云うことを、神様は実行せろと云いよんなさるとぢゃなかろうか。ひょっとすると、今日は四十分遅れたけん、どこどこの市場に出そうと思いよったけん。近くの市場に出せと、神様が云いよんなさるとぢゃろうか。そしてひょっとすりゃ、遠か所に出さうと思いよったのを、近くに出した方が高かったと云うごたるなら。これは鍵を中に詰め込んだつも、これは神様のご都合ぢゃった。おかげをやりたいと云う神様の願いが、四十分かかって、いらいらするもやもやする。それでも金光様、金光様で開けよったら開いた。四十分かかった。その四十分の間にそう云うことを思うておるです。ずーっと。だからそう云う、例えばです。わざわざ遅れらかせて、近い所で高く売らせようと云う神様の御神意か。それとも朝参りを朝参りをと、何時も自分が思うておって出来んから。神様が朝参りを催促してござるか。まあ色々に思うて、それがどれが合うとるやら合うとらんやらそれは分らん。またどこに御神意があるかそれは分らん。けどあんたんごと、そげん思うちからするなら楽しかの。と私は言うたことでした。失敗したっちゃですね。と云うて、その楽しと云うところまで、有難いと云うところまでは、分らん風だけれども。どこに御神意があるぢゃろうかと思い続けておると云うことです。だからそこに右だからとか、左だから。おかげであるとか、おかげでないとか、色々そう云うふうに、考えることも出来てしまった後に、楽しいようにあるけれども。信心の根本の所を分って、そのことに取り組んだらそのことが本当に楽しいことになると思うです。そしてそのことが本当に力になると思うんです。神様は願い通りに、どんどんおかげを頂くとは仰っていない。その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうがと。容易う信心はするがよいぞと仰っておられる。もうその日、その日立ち行きよると云うことが、立ち行こうがと、だからそこの所に本当の有難いと云うことを分からせて頂く信心です。
どなたでしたか、昨日か、一昨日か。徳積みの信心と云うことを、ここで御理解を頂いた。私はもう一家中で、長年信心をしよりますげど。いっこうにおかげを頂ききりませんと。どこに間違いがあるなら、おかげを頂ききらんぢゃろうかと。
そりばってんが、その日その日おかげ頂いて行きよるぢゃろううもん。ああ、原さんぢゃった。善導寺の原さんでした。そのおかげを頂くと云うことがね。間違えると、そう云う質問が出て来るわけです。なしや、その日その日に一遍でん食べんやったことがあるのと。サアー御本部参拝するといゃ、誰よりも先に申し込むようなことが出来るおかげを頂いて。息子達でん、嫁御たちでんそりこそ、もう一家を挙げて、あんたの後から信心に付いて来るし。言うことがありばするの。おかげ、その日その日におかげを頂くと云うことが有難いとばの。結局どうしておかげ頂かんぢゃろうか、どうしておかげ頂かんぢゃろうか、ばっかり思いよるけんそげな風な考え方が出て来て、お伺ひせんならんごとなる。
但しここで言わなきゃならんことはね。あんた方は一家中で、徳積みをさせて頂きよることを分らんのち、申しました、ね。日々、目には見えないけれども、云うならば、天の銀行に毎日毎日貯金しよると思わんの。と私が申しました。そりゃもう、楽しゅしてこたえんね。銀行に金を借りに行くとは、有難くはないばってんが。金を預けに行くのは、楽しいでしょうが。信心を頂くと云うことになると、それがはっきりと分って来るです。そりばってん、何時までたったっちゃ、満金にならないと云うころを、考えなきゃならないよ。と云う意味のことを話しました。ね。
徳積みを一生懸命にしよる。徳を積んでいきよる、ね。ところが、何時までたっても、それが満金にならんところをね。一つ分からせて貰わにゃいけん。と云うて、その前の月次祭の時に、話した。高橋さんの例を話したんです、ね。
本当に、この人の信心は真似は出来まい。誰も真似は出来はい。と云うような信心を一生懸命なさいます。御用の面でも、御参拝の面でも。云うならば日参、教聴、出来ているわけです。心行、家業の行にも、まあ取り組んでおられるわけです。ところがその前の日に、今度の福岡東分会の、共励場を自分の家でなさるようになった時に。ある人が、おかげを頂きたい。この人も大変熱心な人ですから。おかげを頂きたいと思うて。お宅で共励会があるそうですの。と云わっしゃった。その時に、高橋さんが云うてござることが、家は狭いからねとこう言うたち。もう来なさるなと言わんばっかりに、聞こえたわけ。だから行きたい思いよるけど、行きませんでしたと。そしたら今朝方から、お夢を頂いて、Z『高橋さんが、小さい部屋でいろりがある。鍋かはがまかが掛っとるとに、下に【】くべてあって、一生懸命に火を起こそうと思って吹きよんなさる。もう部屋中、煙がもうもうとしとる。だから煙たそうにしとりなさるから、火吹き竹を使いなさると良いですよ。と云うたところで眼が覚めた。』とこう云う。信心させて頂いて、例えて申しますならば。人間は、誰でも好き嫌いがあります。食べ物でもね、好き嫌いがあるように、人もこちらから近ずいて行きたい人もあるかと思うと、敬遠したいような人もあります。あればっかりはもう、顔見るとも好かんち云うともやっぱあるです。ところがこれは、何時も私もそうですから、なら嫌いとか好かんというごたるとば、大切にしなければいけないよと。好きなとは、大事にしようと思わんでん、何時の間にか大事にしてる。けども好かんと云うとをです。摘み切るように、それをしたんでは信心にならないよと。その好かんと思ふような人の向こうにおかげがあるよ、お徳があるよと。云うふうに何時も申します。だから好かんと思うたら、ひとつ尚大事にでんすると云う気持ちになりなさい。
ははあ、今高橋さんが、云うならば親からでも煙たがられてござる。物、金からも煙たがられてござるのは、そう云うところに原因があった。本に、玉にきずちゃそのことだろう。ここばいっちょ高橋さん、改まったらおかげになるばいと云うて話したことを、高橋さんにも聞いて頂いたんです。
そりけん私は、どこば改まったら良かぢゃろかと云うて、なかなか言えるもんぢゃないけれども。高橋さんの場合は、私が言うのぢゃない。言わんならんように、神様が仕向けて下さっておる。今日こちらに参りましたら、○○さんがあなたの夢を見ました。こげなお夢を頂いたと言われたが、どう云うことぢゃろうかと、お伺いに来なさったです。高橋さんが。それはあんたが、その人を煙たがったから。あんたが心の中に、そう云うものがあるから、云うなら今あんたが、煙たい思いをせんならんよと、ね。丁度その時に、尺八の御理解を頂きましたね。尺八の音色に聞きとれながら、自分だけが悦に入っとるだけぢゃでけん。それこそ網笠を取ったら顔が歪んどる。だから神様が何時までも笠を取って下さらんのだ。只、自分だけが有難い、有難いと云う信心ぢゃでけん。その信心ちゃ有難いなあーと思うその心で、嫌なものでも好きになる稽古をさせて貰う。云うなら、それを火吹き竹替わりに使うと云うことが、あんたに欠けとったんぢゃなかろうかの。私は今日は、それを本当に。あんたが、ここのおかげが頂けたら、それこそ徳積みの信心を一生懸命させてい頂とるのだから。その判子なら判子、真心の判子を持って行ったら、何時でも引き出せるのぢゃなかろうかと云う意味のことを申しました。
だから徳積みの信心をさせて頂いておることがです。有難いですが、それにはね。信心の何たるかを知らなければいけない。只おかげ信心に終始しちゃならん。いやむしろです、願ったことが右が左、左が右と云うような中に。それこそ国雄さんぢゃないけれども、いろいろと思わせて貰い、分からせて貰い。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、練るところに信心の有難さがあるのですから。
そして信心とは結局は、合楽理念に基ずかねばならん。その合楽理念の根本のところを言うと。信心とは本心の玉を結局研くことであり、日々の改まりが第一だと云うことになるのですから。そのことを通して改まりもしょう。そのことを通して研きもしょうという信心にならせて頂く時に。信心はこよない有難いもの、それこそ楽しいものにまで高めて行くことがでける。そして段々に分からせて頂く。ああ自分はこれをいっちょ改まらんならんぢったと、本気で改まった時に、積み上げておる徳の道が開けて来る。そこから限りないおかげにつながって来る、ね。
その日、その日が立ち行けば有難いぢゃないかと。その日、その日が立ち行っているのに、まあだおかげを頂き足らんような思い方をするところに、どうしておかげ頂かんだろうかと云うことになる。そのどうしてと云うのを、自分の心の上に持って来て。ああ自分達は、昨日の御理解で言うと。自分の心を大切にしていない。親先祖を大事にしていない。成程、云うなら食物なら食物を大切にしていないと、色々と分からせて頂いて。改まって行く事のたんびに、我ながら我が心が拝めれる様に段々なって来る。今日は私は、おかげ信心は、確かに難しい。けれどもお徳を頂く信心は容易。だからお徳を頂く信心と言うと、いかにもお徳を頂くために、何かお徳がぶら下がっとるような感じですけれども。云うならば、本当の信心を頂く事なんだ。本当の信心を頂くと云うことはです。人間がこの世に生を受けて。おかげを頂いておると云うことは、結局一生をかけて、生神を目指させて貰うと云う。そう云うそれが神様の願いであり、私共が、そこに気付かせて頂くと云うことが信心であり。有難いことが分かって来るとです。信心はいよいよ有難いものになって来るのぢゃないでしょうか。信心は容易と仰るのは。信心、所謂お徳を受けて行くための信心は容易。稽古しょうと思うたら愈楽うなって来る。どっちが勝つの負けるのと、分かったらもう面白味がなくなる。サアーどっちが勝ぢゃろうかと見るところに、相撲見物の面白味があるように、お道の信心をさせ頂ていてもそうです。願いが願い通りに成就することだけが信心ぢゃない。これが愈おかげ信心に終ったんぢゃつまらん。信心も頂く、お徳も頂く。それでいて十年も信心させて頂きよったら、我が心も拝めるような時も、段々出来て来るけれども。段々教えも、実際に頂いてみると、神様にお気付けを頂いて分かってみると。こんな簡単なことが出来ていなかった。こんな簡単なところが、改まりが出来ていなかったと、改まるところから徳の道が開けて来る。そこには人間の、云うならば幸せの条件の全てが足ろうて来るようなおかげにもなって来る。
まずはね。私共がその日その日立ち入っておると云うこと、そのことにね。もう心に底から、お礼の申し上げられるような信心を頂いて。愈、本心の玉を研くこと、日々の改まりと云うことに、いつも焦点を置いて。信心の共励をすると云うなら、そう云うところに焦点を置いて、信心の稽古をさせてもらわにゃならんと思うですね。どうぞ。